クレオール語は言語の異なる地域の人たちが意思疎通を図るために編み出したコミュニケーションツールとしての言語であるピジン語と呼ばれるものがその地域で体系化され定着したものです。

もともとは貿易開始や欧米国家による発展途上地域の植民地化などの際に発生するのが普通ですが、中には特殊な経緯で生み出されたクレオール語というのもあります。

 

例えばピトケアン語もその一つです。

ピトケアン語は太平洋上に浮かぶイギリス領のピトケアン諸島で使われていますが、実はこの場所は映画化もされた歴史上の事件、「バウンティ号の反乱」の舞台でもあります。

 

バウンティ号は映画では戦艦と称されるなどだいぶ脚色されていますが、実際にはイギリスが買い上げた商船バウンティ号にイギリス軍人が乗り込み植民地化していた太平洋の島々から物資や人員を徴用していた小型船です。

 

1789年4月、この小型船に乗っていた44人の軍人のうち12人が反乱を起こし、船長以下約半数の乗組員を追い出して船を奪いました。反乱兵のうち9人はタヒチ島で18人の現地人を連れて当時無人島であったピトケアン島に逃げ込み生活を始めます。

 

この時連れられた18人のタヒチ人の中には自ら希望してついて行った者もいれば、半ば強制的に連れていかれた者もいたようです。

 

ともあれ、元イギリス兵9人と元タヒチ島民18人はピトケアン島で新しく生活を始めることになりましたが、この際にタヒチ語のしゃべれないイギリス人と英語がしゃべれないタヒチ人の間でコミュニケーションを取るために生み出されたのがクレオール言語となる「ピトケアン語」だったのです。

 

もともとはタヒチ語もタヒチ島の原住民とフランス語の間で発生したクレオール言語なのですが、そこからまたピトケアン語というクレオール言語が派生したというのが実に興味深いところです。

 

植民地化と軍人の反乱というあまり好ましくない経緯を経て誕生したピトケアン語ですが、それは現在でも現地の人々に脈々と受け継がれています。19世紀初めから20世紀の前半にかけて強制的な移住や希望者の帰還を何度か繰り返しながら、現在のピトケアン島には47人の人々が住んでいます。

 

島民たちの中には反乱を起こした兵士9人と連れられて行ったタヒチ人18人の子孫もしっかりと血を伝えていて、世代をつないでピトケアン語を話し続けてているのです。歴史の波に翻弄されながらもしっかりと現地に根を生やして受け継がれていくクレオール言語のあり方を見ていると、人間が文化を紡ぎだしていくエネルギーの力強さを感じずにはいられません。